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端島(軍艦島)

Hashima(Gunkanjima)




  【 画像をクリックすると大きいサイズの写真が表示されます 】

When the image is clicked, the large size photograph is displayed.


(旧 野母崎町より端島〔軍艦島〕を望む)
国道499号線から見た端島(軍艦島)です。ここから直線距離で5キロほどの場所にあり意外と近く見えます。島の形がまるで軍艦のように見えたことから、大正時代から軍艦島と呼ばれるようになったそうです。

Route 499 is a view from the road.
よく見ると本当に軍艦そっくりです。かつては周囲1.2キロの小さな島に5,000人以上が暮らしており病院から郵便局、消防署、パチンコ屋、雀荘、ビリヤード場などが島内にあったそうです。

It is very similar warships closer look. Once the tiny island of 1.2 kilometers around 5,000 post offices are home to more than one hospital, fire station, pachinko parlors, mah-jongg parlor, there was a pool hall and the island.
島の南側。現在、この付近は長崎市によって見学用の歩道が整備されています。

It is the south of the island. As for this vicinity, the pavement for the visit is being maintained by Nagasaki City now.
端島の桟橋が見えます。この桟橋が出来るまでは島への上陸は大変だったようです。見学が解禁されるに当たって桟橋も再整備されています。白い灯台は無人島になってから建設されたもので太陽電池で動いています。かつては24時間、島全体が明るかったのでそれが灯台の代わりとなり、灯台は必要無かったそうです。 

A white lighthouse is constructed after it becomes an uninhabited island, and is operating by the photovoltaic generation.
When people lived in the lighthouse must be so bright at night was not the whole island.
中央に見えるのが端島(はしま)神社です。かつては島の若者のデートスポットの1つだったそうです。

The shrine of the island. Once a date spot for young people it was one of the island.
島の北側は歩道は整備されておらず見学者の立ち入りは出来ません。

Hashima north of the trail visitors from entering the development is not possible.
上の写真より少し北側から 夫婦岩と端島
パノラマ写真




端島(軍艦島)に上陸
It lands in Gunkanjima.


長崎、元船桟橋から軍艦島クルーズ船、ブラックダイヤモンドで19キロ離れた軍艦島へ。

Tour boat headed to the gymnasium 19km away from the port of Nagasaki.
女神大橋を過ぎると船はスピードを上げ、伊王島を経由して30分ほどで軍艦島に到着。
端島(軍艦島)に到着。

Arrived on Hashima(Gunkanjima).
船が横付け出来る桟橋も整備されています。

Can be developed alongside the pier was safe ship.
端島(軍艦島)に上陸
現在は見学用の歩道も整備され、安全に見学出来ます。

Now also been developed for the tour trail, can visit safely.
今回の軍艦島上陸クルーズでは軍艦島を世界遺産にする会・坂本道徳さんも同行して島の歴史や経緯、思い出などをユーモアと笑いを交えながら分かりやすく説明してもらえました。


坂本道徳さんの案内の中で、「この島には廃墟の島、軍艦島という響きだけで来る方もいらっしゃいます。
しかしこの島は日本の近代化を支え戦後復興も支えてきた炭鉱の島です。石炭を掘っていた島です。
それだけは記憶にして下さい。それが元島民の願いです。
最初から廃墟の島だった訳ではありません。
昭和49年(1974年)まで人々の営みのあった島でもあります。」

という言葉が強く印象に残りました。ふるさと、端島(はしま)に対する強い思いを感じました。

30分と少し長いですが軍艦島に行った時の動画を You Tubeにアップしてあるので 興味のある方は こちら をクリック
 


当時の端島でもっとも設備の整ったアパートです。このアパートは三菱の幹部社員専用で各家庭に水洗式のトイレとお風呂があったそうです。その下の崖には緑色にペイントされた跡が今でも残っていますが、当時の端島の人たちの「この島には緑が少ないから少しでも緑のある風景を作りたい」という思いで緑に塗られたそうです。そして緑にペイントさらた場所には〔三菱高島炭鉱端島工業所〕という看板が1974年までかかっていました。

It is an apartment well-appointed most in islands.
ただ1974年に端島が無人島になり長い年月をかけて少しずつ島に緑が増えていきました。海も人が住んでた当時は汚かったようですが皮肉なことに無人島になってから海が綺麗になったそうです。

I went a little more green on the island over the years on a desert island and the island in 1974.
無人島になってから建てられた端島の灯台です。今の端島には電力が供給されていないので太陽光発電で動いていることが分かります。太陽光発電で動いている灯台は大変珍しいのではないのでしょうか・・。炭鉱は3交代制で24時間操業。夜も島全体が光輝いていた為、1974年までは島に灯台が必要ありませんでした。しかし1974年4月20日に島から光が全て消えました。

The lighthouse was built after becoming a desert island.
The year 1974 did not need a lighthouse on the island. All the light disappeared from the island on 20 April 1974, however.
真ん中にぽっかりと穴が開いてますがここはかつて風呂場があった場所です。多くの浴槽がり今でも残ってますが、炭鉱マン達は地下600mから上がって服を着たまま浴槽に入り服を脱ぎながら洗いながら次の浴槽へと移っていったそうです。その為、炭鉱マン達が最初に入る浴槽は真っ黒だったそうです。写真右側の階段は地下600mの炭鉱に入る為の入り口になります。

The location was once a public bath.
この階段を下ってくる炭鉱マン達には暖かい風呂が待っており「地上に帰ってこれた」という安堵感が、反対に階段を登っていく炭鉱マン達には緊張感が・・。生死が交差する階段でした。この階段を自分の足で登って自分の足で降りてこれなかった炭鉱マンも沢山いたそうです。端島の長い歴史の中で215名の方が炭鉱事故で亡くなっています。 この階段は生と死が交差した階段でした。

This was the intersection staircase stairs of life and death of our miners.
石炭を運び出すベルトコンベアーの支柱と端島小中学校。ベルトコンベアーからはいつも大きな音を放っていたそうです。 7階建の端島小中学校です。1階から4階までが端島小学校、5階〜7階が端島中学校だった所になります。高校は端島には無かったので島外の高校に通っていたそうです。

It is Hashima island elementary and junior high schools.
肉眼では確認出来ませんでしたがガラスも一部残っています。長い間、台風の強風などで多数のガラスが割れたと思われます。台風の痕跡は特に島の南側で多く見られます。小さな島ですが場所によって風速が異なります。見学した日も島の西側(桟橋付近)は風も比較的穏やかでしたが南側は遮るものが無い為、強風でした。 Some remain with the naked eye could not see the glass.
Long you think the glass is broken and many of the typhoon winds.
電線はありませんが電柱はそのまま残っています。電気は大正6年から隣の高島の発電所から海底ケーブルを通じて供給されていました(それ以前は自家発電)。終戦末期(昭和20年7月31日)に米軍が高島の発電所を攻撃した時は、端島と高島は停電になりエレベーターも停止し、地下600mにいた炭鉱マン達は階段を使って地上に上がってきたそうです。幸い全員無事に地上に上がってこれたそうです。 7月31日から9日後に原爆が長崎に投下された時は19キロ離れた端島からもキノコ雲がはっきりと見え爆風も感じたそうです。

When the atomic bomb dropped on Nagasaki on August 9, 1945 blast that also reached the island 19 kilometers from Nagasaki.
この岸壁は明治から大正にかけて石灰と粘土を混ぜて石積みをしていった工法、天川(あまかわ)という工法で造られました。石は天草石を使用しています。端島を台風や高波から今でも守っています。 長い年月を経た今でも島を守っており当時の技術水準の高さがうかがえます。
少し歩いて島の南端部分に移動すると岸壁の様子は一変します。島の南側は台風の影響を受けやすく岸壁も幾度と無く破壊されたようで強固に修復されていました。台風の爪痕が多く見られるエリアです。台風で無く海が少しでもしけると波を被るエリアです。

It is signs of the typhoon.
端島の最南端に位置するこの建物は島の中でもっとも台風による高波の影響を受けた建物の1つになります。台風の時は高波が岸壁を乗り越え、この建物を直撃しました。これは人為的に壊れたのでは無く台風の爪痕です。

This building is located in the southernmost tip of the island is one of the buildings most affected by the tidal waves caused by typhoons in the island.
島の南側のエリアでは台風の爪痕を多く見かけます。当然、建物の損傷も他のエリアよりも進んでいます。 In the area south of the island seen many scars of a typhoon. Of course, is more advanced than any other area of the building damage.
端島最南端の建物を北側から
これらも台風の爪痕です。
3つ建物がありますが大正2年に建てられた日本最古の鉄筋コンクリートのアパートです。



It is an apartment that is the oldest in Japan and is ferroconcrete.
端島でも昭和40年代に入ってからテレビなどの電化製品が急速に普及し1974年に無人島になるまでこれらのアパートの屋上にはテレビアンテナがひしめき合っていたそうです。電気、ガス、水道、住宅費はほとんどタダに近く、昭和40年代で20万円代の給料をもらってる人も沢山いて経済的にはかなり裕福な島だったそうです

The diffusion of electrical appliances was the highest level in Japan.
屋上にはテレビアンテナの他にも屋上農園があったそうです。なぜかというと子供たちの為。ここで生まれ育つと草木の名前が分からないまま育ち、本土に行くと恥をかく。なので屋上農園を造ったそうです。 今でも窓にはガラスが残っています。この建物の一階には端島郵便局がありその奥には映画館、パチンコ屋、雀荘、そして遊郭までがあったそうです。電話も郵便局からかけていたようです。電話代が安くなる20時を過ぎると郵便局には電話をかける人で行列が出来たようです。

On the first floor of this building behind it has a post office there was a movie theater.
再び島の東側へ。といっても歩いてすぐですが・・。
再び桟橋へ 桟橋から振り返ってみると、かつて「緑が少ないから島に少しでも緑のある風景を」という島民の想いから緑にペイントされた周りには本当の緑が多いのは印象的でした。
ブラックダイヤモンド号に乗り込み再び長崎へ。
端島から対岸(本土)を望む。 端島の守り神、端島神社は無人島になった後も修復され続けているのかもしれません。ガイドの方の話では端島神社は参拝者がほとんどいないのでその分、御利益は大きいとのこと(笑)・・。
神社の方に向かって沢山の願い事をし、端島(軍艦島)を後にしました。
端島(軍艦島)を後にし、少し離れた海上から。本当に軍艦そっくりです。

The warship is really just like.
端島神社だけが目新しく見えます。やはり人の手が加わっていると思われます。

わずか1時間ほどの上陸でしたが200年の歴史を持ち、1974年に無人島になった端島(軍艦島)。
今は廃墟ですが端島に高層アパートが建ち並び活気が溢れていた 昭和30年代、
新聞は端島のことを【この島こそ何世紀か先の日本の未来の姿であろう】と当時の近未来的な端島を絶賛したそうです。

日本の未来が今の端島のような姿にならないことを願いつつ、日本で唯一 黒字経営で閉山した端島を後にしました。
上陸前はただの日本一巨大な廃墟を興味本位で見てくるだけのつもりでしたが
島の歴史に触れていくうちにいろいろと考えさせられることが多かったような気がします。 



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